この地域が里山再生のモデル地区に指定されたのは、どういう事情ですか?
農村衰退、過疎等をどう考えたらいいのでしょうか?
過疎が進んだ。後継者不在、農地の荒廃、里山は、今、「昔のままの田んぼを残すのか、森に返してしまうのか、」その選択に迫られている。
旧世屋村の五地区で新聞折り込みをする目安は、現在(2009)次のとおり。
木子 6 上世屋18 下世屋25 畑16 松尾5
在来の人を柱に、さまざまな事情と意図を持って移転してきた人と構成を変化させながら、今に至っている。いつの時代も基本は、経済の仕組みへ対応して、誇りと希望を持って生活出来るかどうかの問題。『北国と南国の他に、この小さな島国には、もう一つの雪国と呼ばれる別世界がある』(写真集「雪国」
というように、この地域は、風土、気候に大きな特徴を持っている。一つの視点からの経済的価値の維持は困難だけれども、別な視点からは価値が生まれてくる、再生が可能な条件があるところとみることが出来るという理由で、里山再生のモデル地区に指定されている。
土地や林の利用目的などは、時代の要請、経済状況に応じて変化し、生産物、利用形態もそれに応じて変化せざるを得ないもの。明治 大正 昭和前期 戦後 高度経済成長期
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例えば、炭。始めは、製鉄に利用する限られた技術だったが、江戸時代になり、都市生活が繁栄するのに合わせ、燃料や暖房用には欠くことが出来ないものになった。炭の需要は、昭和三十年代までは年間で200万トン、俵数にして一億三千万俵もあったということ。
燃料革命は、これらの量を供給していた林の管理を放棄せざるを得かった。
経済的な対応には、適地適産と省力化といつも言われる。そのために技術は重厚長大から軽薄短小へと革新を続けている。そういう技術革新も求められる。そういうことへの対応が山間農村の場合は出来ない。新しい用具を導入するにも、難しい条件がある。たとえは、田の広さや土の質。田も狭く、じる田が多い、重いコンバインは使えない。
過疎という言葉は、公文書では、1967年に使われはじめたということらしい。
過疎化は、農地を放棄し続けることであったので、つもりつもってその結果埼玉一県分の面積が耕作放棄地になり、農村人口は20%を割り、食糧を自給出来ない国になってしまった。また、遠藤ケイさんが厳しく訴えかけているように、
「樹木は、上手に利用すれば、五十年周期で再生可能な資源だ。石炭や石油のように使えばやがて枯渇して化石燃料とは本質的な違いがある。自然に生かされ、人間が自然の再生に手を貸した、自然と人間の”共生関係”が崩壊し、両者の間に修復不可能な深い溝が出来てしまった。」わけだ。
つまり、衣 食 住 生産・生業 等に関する 里山の生活の本質は、 限られた条件の中で、与えられているものの性質をよく読みとり、考え、活かし利用し、生き抜くその智恵にあると思う。買うより作る、たくましさ、があった。作るより買うという偽りの豊かさには、明日はない。
そんな村が「消えました」!有形無形のもの含めて自然の中に消えた。「異物」を残さず、「消えた。」ところに感銘する。「村」とともに消えたものは、二つあるのではないだろうか。
一つは、考えた、考える力が必要だった、 無から有へ変える、、必要なものは、作る! 人間の能力の原点は、 考える葦 。 時期 も 材料も用途も
手順もいつも考えていた。 例えば、柿の渋。渋柿。捨てるようなもの。しかし、実は、不可欠なものだった。こういうことにかかわるものではなかったのか、もう一つは、自然、自然に返したというものの人間とともに生存していた多様な生物が消えた!
自然の生命力や生産力の破壊、それは人間の生物としての生存が脅かされることでもある。だから、ことは、一個人、一地域のレベルの問題ではなくなったのだ。世屋は、目先の経済的価値からでなく、人間が人間でいられるための環境という別な視点からの価値の確立、、遠藤さんが「不可能」というその「修復」に向かっていくための、モデル地区にえらばれたのである。
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