世屋・高山ブナ林コース ガイドの卵パレット」(安田 潤 著)より抜粋

 監修 安田 潤 氏 (上世屋・高山ブナ林ネイチャーガイド)


里地・里山とはどういうところ

人の生活圏と自然圏とが接していて、人間が生活のために、自然の生命力や生産力を生活の資源として利用してきた場所。そんな地域での相互の生活を成り立たせていくための文化を持つ、地域共同体が形成されていた。日本の場合、特定の集落と強く結びついていて、薪や炭に用いたり、落ち葉を堆肥にしたり広葉樹の林が里山とよばれる。


里地・里山は、食糧を生産し生計を立てていくための働きかけによって特徴的な景観を持っている。
生活のホームベースとしての家の集まり、食糧を生産をするための水田や畑の部分。燃料や肥料を確保するための林の部分。そして、用材確保するための竹林、等が立地条件に合わせて組み合わされ広がっている。水田は、水源や取水源から枝分かれする水路によってつながっている。
ここでは、人が食糧を生産し生計を立てていくための技術とノウハウを持って働きかけ、「攪乱」はするものの、自然の再生を確実に保障し、自然と人間が、お互いに活かし活かされて、繰り返しの利用を前提としての利用が続けられてきた。そのため、他の動植物との調和が保たれて、多くの生き物たちが人の近くで生き続けている。


この地域が里山再生のモデル地区に指定されたのは、どういう事情ですか?
農村衰退、過疎等をどう考えたらいいのでしょうか?

過疎が進んだ。後継者不在、農地の荒廃、里山は、今、「昔のままの田んぼを残すのか、森に返してしまうのか、」その選択に迫られている。

旧世屋村の五地区で新聞折り込みをする目安は、現在(2009)次のとおり。
木子 6 上世屋18 下世屋25 畑16 松尾5

在来の人を柱に、さまざまな事情と意図を持って移転してきた人と構成を変化させながら、今に至っている。いつの時代も基本は、経済の仕組みへ対応して、誇りと希望を持って生活出来るかどうかの問題。『北国と南国の他に、この小さな島国には、もう一つの雪国と呼ばれる別世界がある』(写真集「雪国」
というように、この地域は、風土、気候に大きな特徴を持っている。一つの視点からの経済的価値の維持は困難だけれども、別な視点からは価値が生まれてくる、再生が可能な条件があるところとみることが出来るという理由で、里山再生のモデル地区に指定されている。

土地や林の利用目的などは、時代の要請、経済状況に応じて変化し、生産物、利用形態もそれに応じて変化せざるを得ないもの。明治 大正 昭和前期 戦後 高度経済成長期 ・・・・
例えば、炭。始めは、製鉄に利用する限られた技術だったが、江戸時代になり、都市生活が繁栄するのに合わせ、燃料や暖房用には欠くことが出来ないものになった。炭の需要は、昭和三十年代までは年間で200万トン、俵数にして一億三千万俵もあったということ。
燃料革命は、これらの量を供給していた林の管理を放棄せざるを得かった。
経済的な対応には、適地適産と省力化といつも言われる。そのために技術は重厚長大から軽薄短小へと革新を続けている。そういう技術革新も求められる。そういうことへの対応が山間農村の場合は出来ない。新しい用具を導入するにも、難しい条件がある。たとえは、田の広さや土の質。田も狭く、じる田が多い、重いコンバインは使えない。

過疎という言葉は、公文書では、1967年に使われはじめたということらしい。
過疎化は、農地を放棄し続けることであったので、つもりつもってその結果埼玉一県分の面積が耕作放棄地になり、農村人口は20%を割り、食糧を自給出来ない国になってしまった。また、遠藤ケイさんが厳しく訴えかけているように、
「樹木は、上手に利用すれば、五十年周期で再生可能な資源だ。石炭や石油のように使えばやがて枯渇して化石燃料とは本質的な違いがある。自然に生かされ、人間が自然の再生に手を貸した、自然と人間の”共生関係”が崩壊し、両者の間に修復不可能な深い溝が出来てしまった。」わけだ。
つまり、衣 食 住 生産・生業 等に関する 里山の生活の本質は、 限られた条件の中で、与えられているものの性質をよく読みとり、考え、活かし利用し、生き抜くその智恵にあると思う。買うより作る、たくましさ、があった。作るより買うという偽りの豊かさには、明日はない。

そんな村が「消えました」!有形無形のもの含めて自然の中に消えた。「異物」を残さず、「消えた。」ところに感銘する。「村」とともに消えたものは、二つあるのではないだろうか。
一つは、考えた、考える力が必要だった、 無から有へ変える、、必要なものは、作る! 人間の能力の原点は、 考える葦 。 時期 も 材料も用途も  手順もいつも考えていた。 例えば、柿の渋。渋柿。捨てるようなもの。しかし、実は、不可欠なものだった。こういうことにかかわるものではなかったのか、もう一つは、自然、自然に返したというものの人間とともに生存していた多様な生物が消えた!

自然の生命力や生産力の破壊、それは人間の生物としての生存が脅かされることでもある。だから、ことは、一個人、一地域のレベルの問題ではなくなったのだ。世屋は、目先の経済的価値からでなく、人間が人間でいられるための環境という別な視点からの価値の確立、、遠藤さんが「不可能」というその「修復」に向かっていくための、モデル地区にえらばれたのである。


いまなぜ里地・里山なのですか?

世界は、国連生物多様性条約締結国会議C0P2で、「10年までに生物多様性が失われる速さを著しく減少させる」という目標を立てた。日本は「里山イニシアチブ」という言葉で、その生物多様性の保全に取り組んでいる。
戦後の復興、その後の高度経済成長、日本列島改造政策の総括、この間行われたことがどうなってきただろうか。得たものはともかく失ったこと、えーっ!と思うことが、体や心に起きている。 例えば、化学物質過敏症 は、 野菜の包み紙の新聞紙に反応して症状が出るほどだ。(京都9,1.5)ということ。 結果が見えてきた、

ライフスタイルや価値観、それらを分析した上での反省が、再びここへ導いたのだ。里山には、植物はもちろん水田経営を維持するために循環させる水に依拠したり、森や林の恵みに依拠する生物が多く存在していたところだった。
20年周期で利用した、固定せずに、遷移の過程を人間が止めた、待っている草原が作られるのを、近くに出来るから、移動していくことも出来た、あちらこちらに、保障した、交通整理をするお巡りさん、の役目をしていた、通っていいよ、小さいものが通ることを保障した。それが定着していた。牛の草刈り、燃料、屋根葺き、堆肥などに、と。
今は、開かずの踏切になって、新陳代謝が停滞してしまっているのだ。
「すずさいこ」「ささゆり」「みつばつちぐり」、「秋のキリンそう」等は、代表。笹百合などは、親が花束にして持って帰ってきた、、、。 薬という漢字には、楽という字と草という字があるように、植物から人間は健康を守る薬を得てきた。例えば、マラリアの特効薬キニーネはシナの木の皮にしかも赤い色の皮にのみ含まれてているということだ。人類の未来には種が多様に存在することが必要なのだ。何が何に有効なのか、今の段階では分からないことも多いのだ。
 このような事情から生物多様性種の保存が、個人の営み、村の仕事、経済の論理を超えて国家戦略として取り組まれている。そして、その目標は!「達成されなかった」と総括せざるを得ない厳しい実態だということ。

水源の里だのといいます。ここが水源だと分かるところはありますか?

高地性集落の多いのが特徴です。それは丹後半島の形成に由来する。
雨水は、表層、中層、基底層、しみこまないで流れるもの、浅くしみこんで流れるもの、深くしみこんで流れていくもの三つに分かれて流れ出る。三つ目がいわゆる地下水。山に降った雨水が地下にしみこみ、まずしみ出すところ、それがここなのである。
手近に立ち寄れる所では4カ所。
@ おおしみず 岳山の湧き水 平一郎さん 上 農業用水
A 岳田んぼ
 木子道旧キャンプ場横 
 木子峠蛇橋田んぼ奥
B 駒倉峠道途中 
C 駒倉村跡 入り口 右谷奥 末期の水
 横着して別のを持って帰ったところ違うと見破られてしまった
D 浅谷源流の苔水、 水で出来た泡が消えない ミネラルを多く含んでいる
E 観音記念碑下
F 寺左ミョウガ谷道崖下

地図で見れば、標高400m付近に位置する。
農業、米作りに必要なのは、この三つめの水。理由は、二つ、流量、流れ出す量が安定している、「日照りの夏」も、枯れずに流れ出してくれる、そして、ミネラル分を豊富に含んでいること、ここの地層は堆積地層、各層にさまざまな成分があるわけで、長い時間をかけて通ってくる間に、さまざまな成分を溶かし込んでいく。
これが上世屋での米作りの元になっていた。水田枚数、1500枚、収穫量3000俵が記録されている。
さらに、安定した水源に依拠する生物もいる。
「ひださんしょううお」。網で溝をすくったら、幼生が入る。知識がなかったので、「なまず」の子がなぜこんなところにいるのか、不思議に思った。

 最近、河川の総水量に異変が起きているといわれている。感覚的に河川の水量が減っているのではないか、堰をつくって計測している通る水の量、十分単位で記録されている、その計測でもそうらしい、美山の芦生の谷でもそういう計測堰で調査が続けられている、としたらその原因は何かということだ。仮説、今これが原因ではないかと、あげられているのが、山の木、切らなくなった、木が伸び放題、木は、光合成をする、そのために水を吸い上げる、大きくなった木はそれだけたくさんの水を吸い上げる、バイオマス量、生育する樹木などの体積の量との関係が指摘されている。



丹後半島の山間集落は、どのように成立し、生活はどんな条件で続けられましたか?

かって丹後半島山間部には500mから600mにかけての高地に数多くの集落があった。これらの村々のことを京都府レッドデータブックは「隔絶山村集落」という言葉を使っている。

集落がそこに存在できたのは、湧水が有り、地滑りにより水田を拓くために必要な柔らかい緩斜面が形成され、生活空間が拓かれたため。大半の集落は姿を消したが、上世屋の地形は、丹後半島山間部に数多く存在した高地性集落の立地上の特徴を典型的に表す意味で貴重。
どういう事情の人がいつ頃そこに生活空間を拓いたのか、立村の由来については、古代の対大陸を睨んだ防衛施設説、平家落人説、資源を求めたり山の樹木に生業を求めた人たち説等、諸説ある。上世屋には、704年とする法灯伝説が伝えられている。
地形的には「隔絶」しているようには見えながら、この村々はつながっていた。現在住んでいる人たちの婚姻は、木子、駒鞍、味土野、野間といったさらに山間部の村と相互に関係を持っていた。

原始、深いブナの森は豊かな山の幸を提供したであろうこと、古代、日本海側が表玄関であったこと、「わしは平家の落人の末裔だ」と聞かされている人もいるが、地理的にも京、大坂に近く、多くの人たちが政治的変動に見舞われたはずだ。山は、これらの人たちをも受け入れてきたのだろう。

「探訪 丹後半島の旅 地名語源とその歴史伝承を尋ねて 」澤 潔 文理閣
中巻、第6章「平家落人集落と漂泊木地子集団」の項での木子の成立への推論がおもしろい。。
「日本海直行コースによる新羅・高句麗系の」「渡来轆轤工集団」という仮定を立て、「山の材料資源の枯渇と、産業革命にヨル工場制機械工業の発達に伴い、必然的に吸いたいの一途を辿り、明治の中頃には、」「従来のはたらき場所であった、山間僻地や深山幽谷を棲家として、木地子の職業をつづけ、焼き畑農業を営み、山谷を拓いて千枚田や段々畑を耕し、薪炭などをつくって生活するなど」「帰農するのやむなきに到った」ものだと述べている。
平家落人集落は、「地滑り地帯」の分布に重なるという。松永吾一氏の「侵入者が山間を支配した上で作り出した敗者の美学」「血の優秀性につながろうとするコンプレックスの裏返し」という説を引き、「貴種流離タンの虚構」の明確に断じている。

しかし、同じ距離にありながら、海岸部の日置等との「縁戚関係」はほとんどない。これは、どういった背景があるのだろうか。
一年の生活体系の基本的な異なり、特に冬の雪の三ヶ月を組み入れた生活体系、常緑広葉樹人と落葉広葉樹人といえばいいのだろうか、その違いが通婚を阻んだのではないだろうか。。

従来住んできた方の老齢化は進んでいるものの、離村せずに今も住み続けられたのには、自然の生産力への信頼が無意識に作用したのではないだろうか。

上世屋の婚姻は、木子、駒鞍、味土野、野間といったさらに山間部の村と相互に関係を持っていた。従来住んできた方の老齢化は進んでいるものの、離村せずに今も住み続けられたのには、自然の生産力への信頼が無意識に作用したのではないだろうか。
「どっこい私は、ここに生きている。」

土の生産力に生活をゆだねること、それはいうほどかっこいいものではない。村では、広くない面積を各家族に分割すれば、持ち分は多くない。現金社会の中で、現金を手に入れることは不可欠である。その現金を生む土の生産力には限界がある。
上世屋で残ることのできた人たちは、営林署の作業員への採用と帯織りが出来た家。

現在は、離村はされたものの、帰村する人、通農する人、新規に入村する人、NPO関連で体験に来る人などで、混住化が著しく進んでいる。ここが問題。存命の方も七十の後半、八十代、その一方、新しく移住してみえた方も多い。村へ入っても、自己紹介からはじめなければならないような状況がある。

冬 埋まる雪で 多い年で、38豪雪4m30cm 平均1m69cm 。十日町市(新潟県)と比べると、最大425cm(1945年)、最小81cm(1989年)。最大積雪深240cm。それ故に、京都の岩手県、京都のチベットとまでいわれたものだ。

気候風土は、北陸や東北と良く似ている。
雪国越後には、
「諸国まで高く聞こえし高田さえ 今日来てみれば、低くなりけり」
という歌とか、
「旅の人がやって来て、「このあたりにあったはずだが、と目当ての家を探すのだが、どうしても見あたらない。一面の雪の原である。ふと、傍らの雪の上の立て札を見ると、「この下に、○○村あり」と書いてあった、、、という話が各地にあるという。
「初雪の積もりたるをそのままにおけば、再び降る雪を添えて、一丈にあまることもあれば、、一度降れば一度掃きはらう。これを、里言に雪掘りという。土を掘るがごとくするゆえにかくいう」
江戸 この上世屋の冬と雪のことを書いている「たんかふし」にも似たような表現がある。

『七月八月のころより少しずつ雪降り、三、四月のころまでもなお雪を見る。十二月前後,六、七十日の間雪の積もる二丈三丈に及ぶ。よって人家も雪にうずみて山岳の差別あることなし。その人、穴居するがごとく、昼は松を焼いて明かりをとる。雪のようやくはるるを待っててんずきをもって軒より穴を開けてかんじきというものをはきて隣家と好を通ず。』

文語文の表現力は、想像力をかき立てる。
わずか、二十キロしか離れていない。それなのにこの書きようだ。
『北国と南国の他に、この小さな島国には、もう一つの雪国と呼ばれる別世界がある』(写真集「雪国」)
と言うように、雪の降らない国と降る国には、生活と心情には違うものがあるのだろう。

『雪地獄 祖父の地なれば 住み継げり (阿部子の日 ・十日町)』

降るたびに雪を掘り、家を守らなければならない。「力強き家も、幾万斤の雪の重量に推砕かれんことをおそるる(牧之)」のである。 離れるわけにはいかないのだ。
稲こき、取り入れが済めば、次は、男は「ワラ仕事」、女は「はた仕事」、「縮みを織る処のものは、嫁をえらぶにも、縮みの伎を第一とし、容儀は次とす。この故に、親たるものは、娘の幼きより、この伎を手習わすを第一とす。(牧之)」雪国の里の、女の宿命冬の雪の三ヶ月を組み入れた生活体系の中に、自給自足の技術が継承されたのだ。
今も昔も、常緑広葉樹人には、雪国・上世屋は、ワンダーランドなのだ。
春は桜が、夏は蛍、秋は柿がと景観は、容易に讃えることができる。しかし、冬の雪の下の三ヶ月に耐えられる生活力、価値観があってこそ、一年を通しての生活が可能となるのだろう。農村の良さを認めて新規移住する人も、冬は下でという二重暮らしをしている人が少なくない。。

雪の雪。バス路線延長に伴う道路拡張は、大きな意味を持っていたものだ。除雪を入れることができた。
除雪をしてほしい、それが、住民要望、学校要望の第一だった。
ただし、橋まで。木子、駒倉は、壁でふさがれていた。この壁が、下世屋にあれば、上世屋の「今日」はなかったであろうと思われる。

地滑り地形は、あたかも仏様の手のひらの上に載っているよう。
多くのところで里地・里山の特徴が維持できなくなっている。
その中で、上世屋は、最大7,80戸を擁した村だったが、現在、家屋は15戸あるが、従来から根付いている所帯は8戸、そのうち夫婦が健在なのは、三戸。

生活のホームベースとしての家、食糧を生産をするための水田や畑、燃料や肥料を確保するための林、農業資材を確保するための竹林、家屋更新、非常時用の用心林などがまとまっていて、里山生活の考え方や習慣、いつ何に何をすべきかを熟知して技術を持つ人がいる数少ない地域だったが、高齢化が進んで、その意味では極限状態。
里山生活の考え方や習慣、いつ何に何をすべきかを熟知して技術には、今の時代の閉塞を新しく拓いていくものが籠もっているのではないだろうか。

かって丹後半島山間部には500mから600mにかけての高地に数多くの集落がありました。これらの村々のことを京都府レッドデータブックは「隔絶山村集落」という言葉を使っている。

集落がそこに存在できたのは、湧水が有り、地滑りにより水田を拓くために必要な柔らかい緩斜面が形成され、生活空間が拓かれたため。大半の集落は姿を消したが、上世屋の地形は、丹後半島山間部に数多く存在した高地性集落の立地上の特徴を典型的に表す意味で貴重。
どういう事情の人がいつ頃そこに生活空間を拓いたのか、立村の由来については、古代の対大陸を睨んだ防衛施設説、平家落人説、資源を求めたり山の樹木に生業を求めた人たち説等、諸説ある。上世屋には、704年とする法灯伝説が伝えられている。
地形的には「隔絶」しているようには見えながら、この村々はつながっていた。現在住んでいる人たちの婚姻は、木子、駒鞍、味土野、野間といったさらに山間部の村と相互に関係を持っていた。

原始、深いブナの森は豊かな山の幸を提供したであろうこと、古代、日本海側が表玄関であったこと、「わしは平家の落人の末裔だ」と聞かされている人もいるが、地理的にも京、大坂に近く、多くの人たちが政治的変動に見舞われたはずだ。山は、これらの人たちをも受け入れてきたのだろう。

「探訪 丹後半島の旅 地名語源とその歴史伝承を尋ねて 」澤 潔 文理閣
中巻、第6章「平家落人集落と漂泊木地子集団」の項での木子の成立への推論がおもしろい。。
「日本海直行コースによる新羅・高句麗系の」「渡来轆轤工集団」という仮定を立て、「山の材料資源の枯渇と、産業革命にヨル工場制機械工業の発達に伴い、必然的に吸いたいの一途を辿り、明治の中頃には、」「従来のはたらき場所であった、山間僻地や深山幽谷を棲家として、木地子の職業をつづけ、焼き畑農業を営み、山谷を拓いて千枚田や段々畑を耕し、薪炭などをつくって生活するなど」「帰農するのやむなきに到った」ものだと述べている。
平家落人集落は、「地滑り地帯」の分布に重なるという。松永吾一氏の「侵入者が山間を支配した上で作り出した敗者の美学」「血の優秀性につながろうとするコンプレックスの裏返し」という説を引き、「貴種流離タンの虚構」の明確に断じている。

しかし、同じ距離にありながら、海岸部の日置等との「縁戚関係」はほとんどない。これは、どういった背景があるのだろうか。
一年の生活体系の基本的な異なり、特に冬の雪の三ヶ月を組み入れた生活体系、常緑広葉樹人と落葉広葉樹人といえばいいのだろうか、その違いが通婚を阻んだのではないだろうか。。

従来住んできた方の老齢化は進んでいるものの、離村せずに今も住み続けられたのには、自然の生産力への信頼が無意識に作用したのではないだろうか。

上世屋の婚姻は、木子、駒鞍、味土野、野間といったさらに山間部の村と相互に関係を持っていた。従来住んできた方の老齢化は進んでいるものの、離村せずに今も住み続けられたのには、自然の生産力への信頼が無意識に作用したのではないだろうか。
「どっこい私は、ここに生きている。」

土の生産力に生活をゆだねること、それはいうほどかっこいいものではない。村では、広くない面積を各家族に分割すれば、持ち分は多くない。現金社会の中で、現金を手に入れることは不可欠である。その現金を生む土の生産力には限界がある。
上世屋で残ることのできた人たちは、営林署の作業員への採用と帯織りが出来た家。

現在は、離村はされたものの、帰村する人、通農する人、新規に入村する人、NPO関連で体験に来る人などで、混住化が著しく進んでいる。ここが問題。存命の方も七十の後半、八十代、その一方、新しく移住してみえた方も多い。村へ入っても、自己紹介からはじめなければならないような状況がある。

冬 埋まる雪で 多い年で、38豪雪4m30cm 平均1m69cm 。十日町市(新潟県)と比べると、最大425cm(1945年)、最小81cm(1989年)。最大積雪深240cm。それ故に、京都の岩手県、京都のチベットとまでいわれたものだ。

気候風土は、北陸や東北と良く似ている。
雪国越後には、
「諸国まで高く聞こえし高田さえ 今日来てみれば、低くなりけり」
という歌とか、
「旅の人がやって来て、「このあたりにあったはずだが、と目当ての家を探すのだが、どうしても見あたらない。一面の雪の原である。ふと、傍らの雪の上の立て札を見ると、「この下に、○○村あり」と書いてあった、、、という話が各地にあるという。
「初雪の積もりたるをそのままにおけば、再び降る雪を添えて、一丈にあまることもあれば、、一度降れば一度掃きはらう。これを、里言に雪掘りという。土を掘るがごとくするゆえにかくいう」
江戸 この上世屋の冬と雪のことを書いている「たんかふし」にも似たような表現がある。

『七月八月のころより少しずつ雪降り、三、四月のころまでもなお雪を見る。十二月前後,六、七十日の間雪の積もる二丈三丈に及ぶ。よって人家も雪にうずみて山岳の差別あることなし。その人、穴居するがごとく、昼は松を焼いて明かりをとる。雪のようやくはるるを待っててんずきをもって軒より穴を開けてかんじきというものをはきて隣家と好を通ず。』

文語文の表現力は、想像力をかき立てる。
わずか、二十キロしか離れていない。それなのにこの書きようだ。
『北国と南国の他に、この小さな島国には、もう一つの雪国と呼ばれる別世界がある』(写真集「雪国」)
と言うように、雪の降らない国と降る国には、生活と心情には違うものがあるのだろう。

『雪地獄 祖父の地なれば 住み継げり (阿部子の日 ・十日町)』

降るたびに雪を掘り、家を守らなければならない。「力強き家も、幾万斤の雪の重量に推砕かれんことをおそるる(牧之)」のである。 離れるわけにはいかないのだ。
稲こき、取り入れが済めば、次は、男は「ワラ仕事」、女は「はた仕事」、「縮みを織る処のものは、嫁をえらぶにも、縮みの伎を第一とし、容儀は次とす。この故に、親たるものは、娘の幼きより、この伎を手習わすを第一とす。(牧之)」雪国の里の、女の宿命冬の雪の三ヶ月を組み入れた生活体系の中に、自給自足の技術が継承されたのだ。
今も昔も、常緑広葉樹人には、雪国・上世屋は、ワンダーランドなのだ。
春は桜が、夏は蛍、秋は柿がと景観は、容易に讃えることができる。しかし、冬の雪の下の三ヶ月に耐えられる生活力、価値観があってこそ、一年を通しての生活が可能となるのだろう。農村の良さを認めて新規移住する人も、冬は下でという二重暮らしをしている人が少なくない。。

雪の雪。バス路線延長に伴う道路拡張は、大きな意味を持っていたものだ。除雪を入れることができた。
除雪をしてほしい、それが、住民要望、学校要望の第一だった。
ただし、橋まで。木子、駒倉は、壁でふさがれていた。この壁が、下世屋にあれば、上世屋の「今日」はなかったであろうと思われる。

地滑り地形は、あたかも仏様の手のひらの上に載っているよう。
多くのところで里地・里山の特徴が維持できなくなっている。
その中で、上世屋は、最大7,80戸を擁した村だったが、現在、家屋は15戸あるが、従来から根付いている所帯は8戸、そのうち夫婦が健在なのは、三戸。

生活のホームベースとしての家、食糧を生産をするための水田や畑、燃料や肥料を確保するための林、農業資材を確保するための竹林、家屋更新、非常時用の用心林などがまとまっていて、里山生活の考え方や習慣、いつ何に何をすべきかを熟知して技術を持つ人がいる数少ない地域だったが、高齢化が進んで、その意味では極限状態。
里山生活の考え方や習慣、いつ何に何をすべきかを熟知して技術には、今の時代の閉塞を新しく拓いていくものが籠もっているのではないだろうか。