「おいで一緒にin上世屋」あゆみ

25年ぶりに開催するにあたり、「懐古」ではなくその時々の想いをふりかえり、新しいコンサートの「糧」としたい。
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<1976年3月31日 第1回コンサート 上世屋分校寄宿舎>

丹後うたごえ祭典をきっかけにした黒坂正文氏と世屋上分校生徒との間に文通が交わされていた。
その時、世屋上分校が過疎の中でその歴史を閉じなければいけないという運命的な出来事があった。
生徒たちの思いに応え、黒坂氏の再度の來丹が実現した。ささやかなパーティー風のコンサートが行われた。
(翌日は伊根町本庄中学校公演)。来年もやろうと約束。

参加は、黒坂氏、生徒たち、分校や近隣の教員、上世屋の青年、岩滝町の青年サークル、与謝の海養護学校の教員たちなど20名。



 「小さな花の歌」


<1977年3月31日 第2回コンサート 上世屋分校寄宿舎>

この年より正式に「おいで一緒にin上世屋」と呼ぶ。「地域に歌を。地域の歌を。地域を歌に。生活に歌を。歌を生活に。生活を歌に!みんな集まろう。おいで一緒にin上世屋」という形で広く呼びかけた。その結果1回目をはるかにしのぐ参加となった。
1回目は寄宿舎8畳2間でゆったりだったが、前夜からの泊り込み準備部隊もあり、8畳4間をぶちぬき、ぎっしり満員。
特に高校生の活躍はめざましく、府立加悦谷高校生と黒坂氏との手で「ガタギシ鉄道」が創作された。

伊根町大原子ども会の人形劇も参加。昼休みには竹細工「風車」つくりも取り組んだ。黒坂氏、高校生のコンサート。
その後加悦谷青年祭、加悦鉄道車中コンサートなど精力的に活動。


参加は、第1回のメンバーに加え、養老中の生徒・教員、本庄中生徒、加悦谷高校、水産高校(現海洋高校)、伊根町朝妻青年会、朝妻大原子ども会、元宮津市議、日置地区の青年。そして児童文学作家の川北亮司氏。黒坂正文通信「なんじゃもんじゃ」のよびかけで広島、岡山、滋賀からも参加。ギタリスト星久氏。およそ60名。
「3月31日のうた」   「ガタギシ鉄道」

<1978年3月 第3回コンサート 世屋小学校世屋上分校体育館>

遠方からの参加を含め、前夜からの宿泊者多数。炊き出しなど大規模な準備体制をつくり受け入れ。
2回目に参加した高校生たちが大活躍。宿泊に実行委員長宅、校長住宅をフルに使用。コンサートの会場は、中学校分校休校にともない実施されなくなった学芸会の設備を活用して体育館に。

当日はマイクロバス一台を準備して送迎に。徒歩、自転車、乗用車でぞくぞく参加。昼食には握り飯を提供する。参加費として500円。
元中学校分校の先生たちのスライド上映。ゲーム、コント、のど自慢など多様な内容。「来年こそ、自分たちの歌を持ち寄ろう」

参加はこれまでのメンバーに加え、地元高校生の広がり。音楽評論家の矢沢保氏。奈良、滋賀、群馬、静岡からも参加。



<1979年4月1日 第4回コンサート 分校体育館>

実行委員会体制を確立。実行委員長に上世屋の青年を満場一致で確認。参加者増が予想されるため、早い段階から実行委員会を開催し受け入れ体制も準備する。文集も作成することに決定。実行委員それぞれが「今の想い」を文章にして綴る。中には曲がついたものもあり当日の発表となる。
前夜祭も盛大に開催。奈良からの参加者がPA(音響)機材一式を提供。そのことが会としてPA機材購入のきっかけとなる。PAのオペレートは元NHKの音響技術者(ふぉるく代表)宮沢氏が担当。丹後のメロディー、落語あり、群読あり、オリジナルコーナーと盛りだくさんの内容。

参加は地元メンバーをはじめ東京など全国各地から多数。

「上世屋へいこう」 「いついつまでも 「大きくなる」  「故郷へ」 「駒倉峠」



<1980年3月29日〜30日 第5回コンサート 分校体育館>

川北亮司氏が79年末から上世屋に逗留。実行委員会の中で重要な役割を果たす。
このコンサートがNHK「新日本紀行」プロデューサーの目にとまり、1月ごろから取材を受ける。取材を受ける側として正しく伝わるかどうかディレクターと話し合いを何度も続ける。喫茶店での話し合いが閉店時刻をすぎ追い出され屋根のあるバス停でさらに話し合いを続けた。
内容はさらに盛りだくさんとなり前夜祭から始まり、当日はほぼ一日を使う長丁場となった。地元で活動する影絵集団「かげぼうし」が川北亮司氏の作品「こだまになった手紙」を上演した。また上世屋の婦人会が「駒倉峠」「北国の春」を熱唱。「新日本紀行は4月に放映。反響大。

文集には、川北亮司氏が「藤織とかわいい鬼婆たち」を特別寄稿。上世屋の青年会メンバーの対談、など充実したものになった。

参加者はますます増加、広がりを見せる。


「めぐる春に」 「ほっかほっか酒の味」 など地元作品中心。


<8月17日 PA開き夏の陣>

実行委員中心に資金を拠出しPA(音響)機材一式を購入。その記念として夏の陣コンサートを開催。金沢から日程を間違えた参加者が前々日に来られびっくり。お盆すぎということもあり地元参加者が中心。

 「花火」 「つくし」 「小さな村」 「このうたを」 「たんぽぽの花」 「かぼちゃ」



<1981年4月4日〜5日 第6回コンサート 分校体育館>

体育館での大人数のコンサートもずいぶんスムーズになってきた。そして「歌をつくる」ことも定着してきた。
手作り文集では、民話や15年間の新聞報道に見る上世屋を紹介。黒坂正文氏が「淡路牛と丹後牛」川北亮司氏が「飛び火」を寄稿。


「未来」



<1982年5月4日〜5日 第7回コンサート 上世屋キャンプ場>

日程の都合でゴールデンウィークの開催となった。せっかくのいい季節であり「屋外でやろう!」ということになりほとんど使われていない上世屋キャンプ場で決行。当日は好天に恵まれ最高のコンディション。
フィールドワークとして、その年整備された「岳山」の遊歩道を登った。コンサートの音響は九州からの帰りに「ふぉるく」がちょっと寄り道をして担当してくれた。世屋小の子どもたちが歌を披露してくれた。


 
「宮津線」 「風の吹く村」 「藤布と世屋のお婆ちゃん」



<1983年4月3日 第8回コンサート 分校体育館>

この年の3月31日。最後に残った世屋小学校世屋上分校が休校になった。(児童2名)記念に校舎前に木蓮(モクレン)を記念植樹。
国営農地開発、中規模観光開発、新農業構造改善事業など「みえる建設」が上世屋でも目立つようになってきた。
文集には、学校がなくなった思い、バス路線の廃止など揺れ動く地域への思いを青年たちが語っている


 「この汽車にのれ」  「木蓮によせて」 など



<1984年4月30日 第9回コンサート 体験実習館>
新たに建設された「体験実習館 しおぎり荘」で開催。黒坂正文氏に加え、ゲストとして笠木透氏、中島光一氏を迎え、「3羽ガラスを迎えうつ」として開催。
内容の広がり。地域から蒲入婦人会のコーラス、日ケ谷の土井さんの民話、本庄青年バンド、朝妻青年会など。また、京都フォークソング連絡会の「虹の谷」も出演。
狭い会場ではあったが熱気のあるコンサート。

 「鳴き砂の唄」  「藤織り娘」 など


<1985年7月5日〜6日 第10回コンサート 宮津会館、 水車横体験実習棟>

転機を迎えた第10回コンサート。多くの地域の動きに主体的に参加してきた。

4月「加悦鉄道廃止と地域を考えるつどい」
「ガタギシ鉄道」の加悦鉄道がおよそ60年の歴史を閉じる。国鉄宮津線廃止の動きもある中で、「サヨナラ加悦鉄道」を創作し地域を考える集いを他の団体と一緒に開催した。当日は最終列車の中でコンサートを行った。

6月「歌おこしセミナー」
広島県「過疎を逆手にとる会」に触発され企画。講師に中島光一氏を迎えた。大規模の参加ではないもののじっくりと生活を見直し生活を歌にする取り組み。

「人間ロボット」 「はたらきもんのしげちゃんの歌」 「歌がつくれたら」 「上世屋へきて」 
「ちょっとのぞきにきてみたら」
 「ぼくの歌を」など

7月5日には宮津市内で「天橋立環境会議」が実施され上世屋の会も中心的に活動。「夢おこせふるさと合唱団」の中心メンバーとして活動。この会議をコンサートの前夜祭と位置づけ10回目のコンサートを計画した。
場所は上世屋地内にできた体験実習棟を利用。宿泊はしおぎり荘。黒坂、中島コンサートに加え歌おこしセミナーでの新曲などを発表。


「ふるさと」 「ようこそ関電に」 「言われへん思ってたけど」 「つくしの歌」 「明日は売らん」

 「大漁旗よ風に舞え」
 「夢おこせふるさと」 「明日は」


<1987年 日本生活教育連盟研究集会>
天の橋立を会場に開催。オープニングに上世屋の会でテーマソングを作成。
世屋に伝わる工芸「風車つくり」分科会を受け持った。


「風ぐるま」



<2010年4月17日〜18日 第11回コンサート 体験実習棟>


25年ぶりの再開。名称もリニューアル。
実行委員それぞれも加齢、環境の変化。25年の生活。それぞれの想いをもとに開催
「ふるさと」

第11回コンサートの概要
第11回コンサートダイジェスト